宇宙大のなんやかや

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宇宙大のなんやかや

彼れと此れとをてんやわんやで考える葦哉。

周りの言う「正義」が自分にとっての「悪」であるなら、自分は周りの「敵」でいいと言えるかな?

しがらみに使われるのか、そうでないか。

考えてきたことが一つだけ。
最近、その正体みたいなものを考えたのでちょっと一筆。
「正直」がいかに大切で、人によってはいかに恐怖であるかというようなことです。

顛倒 

まぁ、私は大層弱っちい人間です。
ちっちゃい頃から思い込みが強いまま、はっきりとした※1反抗期もなく、なんとなく生きております。

※1
精神発達の過程で人の指示に抵抗し、人との関わりを拒絶するようになる。
幼児期に親の指示に反抗し強情を張る時期を第1反抗期,青年期の初めに先立ちふさぎ込んだり,逆らい乱暴する時期を第2反抗期と呼ぶ。

自分の意見が上手く持てず、出すことを恐れた感じです。
両親や教師には、手の掛からない良い子ちゃんだったかなと思います。
今にしてみれば、それは臆病の裏返しなのですが。

夢がありました。
あったように思い込んでいたというべきものです。
幼少の頃、戯れに描いた絵を両親は大層評価してくれました。
今の自分から観ても、まぁまぁいい線いってたなという感じの絵です。
まぁ、それでもお絵かき止まりのものです。
それから、小学生時代に描いたカニの絵が表彰されました。
多分、子供にしては写実的な表現ができていて、それが評価されたのでしょう。
それからは、物を見てそれっぽく描くことをはじめていました。
将来は芸術の分野に進むものだと、周りの大人も自分もそう思っていました。

ただ、自分はそれより、友達とゲームで対戦したり、サッカーをしたり、普段いかないようなところへ行ったり、そういう事を経験し、その場の空気を感じることが最高に楽しいことでした。
例えば絵描きなら、それを絵で表現する気もあるかもしれません。
自分はそれよりも、場の当事者として遊ぶことの方が好きだったんですね。
今でも、観光やイベントに参加したり、なんでもない住宅街や団地を眺めたり、そぞろ歩くことで「のぞく感覚」を楽しむことが好きです。
ただそこにいるだけで十分に幸せです。
(もし死んで幽霊になったら、世界中にある家々を廻り、ひそかに生活を眺めるような存在になりたいのですが、まぁ、そもそも死んだらさっさとおさらばしたい感じです。)

そういう状況で高校に進学し、「なんとなく楽しくないけど現状の自分が得意そうなもの」を選び、それを進路にすべく美術部へ通い、地方の芸大に進学しました。
しかし、ここで「楽しくないけど、やらなきゃいけない」という思いに覆われるような感覚を覚えていました。自分の夢なのにです。
卒業制作での作品づくりに何の楽しみも感じず、ただ作業として完成させたようなものが出来上がりました。
もう「なんとなく得意そう」で自分の将来を決めることが、そろそろ馬鹿らしく感じていました。
しかし、それを認めればいままでそれに費やしてきた時間が無駄になってしまいます。
借金までして学費をはらい、両親に応援してもらってここまできたのです。

義務感で恋愛するとかゴメンだよね。

こうして、義務感で大学を卒業し、震災の年に上京して動画マンになりました。
まるで義務感で夢と結婚したようなものです。やらかしてますね。
それでも一緒にいれば愛が育つという考えもありますが、結果は散々でした。
決定的に疲弊している自分がいることにも気づきました。
あんなに楽しみだったはずの、楽しみでなければならなかったはずの夢が、もう何の感慨も感じられず、どうしようもなくなっていました。
そして、当然のようにドロップアウトしました。
その後は、もう自分がやりたいことを見つけたり考えたりすることが億劫でした。
周りの人間が勝手に期待し、自分の意思を抑圧してここまでのせられたんだとすら思いました。大層な思い込みです。

正直は強い。

正直とはいかに。
私は「そのまま・そのもの・本当」だと考えています。
対義語は嘘です。
私は、私への嘘を正直だとだましていました。
恐れゆえにです。

恐怖ゆえに、周りに反発して「本当はこうなんだ」というのを表現しなかったのです。
今、表現とは私にとって「そのまま・そのもの・本当」の表れだと考えています。
当たり前」と言い換えてもいいかもしれません。
時に湾曲し、時にパロディとして、カリカチュアとして、またそのままの爆発として、または沈黙によって。
さまざまな立ち表れ方をしながらも、「そのもの」はそのままにあるものです。
しかも、誰しもが持っているものです。
私に反抗期がなかったのは、反抗することでまわりに否定され、そのものが捨て去られることを恐れたからでしょう。
しかし、そんなことは、少なくとも私の両親はしないでしょう。
懲罰として、ご飯を一食でも抜かれた記憶が私にはありません。
親は、わが子が本当に心から望むことをかなえ、幸せに生きることを本人以上に望むものだと思います。

自分を出せない人は、おそらく正直さの発露を抑圧されて、否定され、表現することを恐怖しているからでしょう。
それは、もしかしたらいじめや虐待の原因ともなりえそうです。
周りに自分をいじめる人がいる場合、これに似た状況である可能性が高いと思います。
その鬱屈した思いが、家庭に向いているのか、社会に向いているのか。
人それぞれではありますが。

自分の心に恐怖するとドツボにはまる。

そもそも心は、勝手に感じ、勝手に考えます。
お猿さんのようなものです。
本当とは、本来だれにも止めることはできません。
しかし、自分自身がそれをせき止め、隠すことはできます。
人以外の動物は、そういうことをするのでしょうか?
その理由として、私は周りの人間を使いました。
誰かのために」が、「誰かのせい」にすりかわっても、気づかぬフリです。
これでは、どんなことも失敗します。
第一に、自分自身が成功を許しません。自己破滅的といえそうです。

本来、心から自分が望むものや感じた価値、意味といったもの以外は、どうでもいいものです。
それはエゴだろうといわれても、そうなのだから仕方ありません。
いくら建前で大切だ、大事だ的なことをいわれても、自分に嘘はつけません。
しかし、隠すことはできます。

例えば、幼少期より正直さを隠しながら、何十年も生きてきた人がいたとします。
その人が築いてきたものが、その人にとって本当はどうでもいいことだとしたら。
もし、正直にそうとしか感じられないとしたら、その人はどうするのでしょうか。
まず、それまでに費やしてきた年月のことを言います。
これだけ長いことやってきたのだから、きっとこうに違いない。正しいに違いない。
しかし、それは本来なんにも関係ない。
ただ、それを認めると、いままでの人生なんだったの?という気になります。
何十年も人生を費やしてきたものが、正直になればただの浪費や徒労でしかなかった。
そう確信してしまったら…
本来価値の感じられないものなら、人は簡単に捨ててしまいます。
タバコの吸殻、痰や唾、つかわれたティッシュと同じです。
大事にとっておく方がおかしいと言われます。
それは実に健康的で健全な、普通の反応でしょう。
しかし、その健全さを隠して生きてきた人はどうでしょう。
家族だったり、仕事だったり、人生だったり。
本来ならありえないぐらいのものを、ある時ひょいっと捨ててしまうかもしれません。

結構この国で人は自殺しているようです。

・2015年で2万人以上:自殺者数、6年連続で減少 15年2万3971人 :日本経済新聞

もしかしたら、上で書いたようなことを思い、死を選ぶのかもしれません。

直い心/心を直す

もし自分を隠して辛いなら、少しづつでもやめるしか楽になれません。
おなじような悩みをかかえた人はいくらでもいます。
社会は、そういう人を繋げながら変えていける力を持つものだと思います。
それを許さないのなら、その社会はただの集まりでしかないと思います。

価値や意味は、素直な心がちゃんと知っています。
しかも、これで素直になりつくした!と感じてもまだ、その先があるものです。
ちょっとずつでもそういられる時間が、環境があれば、なにかが得られるはずです。

これは価値あるねぇ」とか「意味あるわぁ」と感じる時はどういう時でしょうか?
素直さや正直さが発揮された時、その時に価値とか人生の意味とか、散々使いつぶされてきたような言葉がはじめて活きて来るように思います。
来世に期待するのもいいですが(期待できるようなものではまったくないと私は考えますが…)、どうせやるなら、今から練習としてやってみたらいいのではないかと思います。

「これでいいのだ」って感じで。

やめてみた。 本当に必要なものが見えてくる暮らし方・考え方

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