宇宙大のなんやかや

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宇宙大のなんやかや

彼れと此れとをてんやわんやで考える葦哉。

どうしようもない既卒のオレが就職活動を終えるまで-3・大学時代

重く散って、軽く掃かるる一葉かな

前回は高校時代での影響と内面を考えました。
こじれましたねぇ。
しかし、まだ膿はでません。
外部から針の一刺しでもあればという感じはしますが、真面目そうな人間はそういう機会を失いがちなのかもしれません。

今回は大学時代での自己のダメっぷりを考察します(いらんわい)。

真面目系クズ、半端、カッコつけ

モラトリアムに浸りながら喪男として4年間をすごしましたorz
じわじわと取り返しのつかなさを感じ続けます。

高校時代の「青春=暴れる、出す、傷の付け合い」の無さが、2次元の表現へと逃避する格好の言い訳として使われながら、表現すべきことを表現せず、しないでもいい表現の世界へ逃げ込みました。
これまでも、ここからもひたすらの逃避生活です。
時効の無い罪悪感を生み出す装置を心に作り出し、それをひたすらに稼動させるために多くを学びました。
装置をより頑強にするために多くを経験しました。
学びが、経験が、その為に使われることとなりながら、周りの学生より優れている風を装いながら、それが失敗であることを自覚することを恐れ無視しながら、
美しいものは美しいのだと自分に言い聞かせ、しかし決して自分はそうなれないことを見ようともしません。

コミケに参加することもありましたし、気鋭の監督が創作した作品を鑑賞し、展覧会へも行き、自分もこんな表現をしてみたいなどと、いっぱしの表現者を気取っておりました。
「オレ、今かがやいてる感/やれてる感」が欲しかったのでしょう。
今にしてみれば、ぜんぜんそんなものはいらなかったし、どうでもいいことなのですが。

自分が一番欲しているものは解放でした。
それをこそ表現の核として活動するべきでしたが、逃避者としての自分には出来ませんでした。
架空の世界にそれを求め、仮の人格を使いそれを再現すれば、何がしかの解放感が得られるであろうと自覚はしていましたが、そんなものに何ほどの価値があろうかという思いが強くありました。
そんな慰めでは、自分のこの境涯はどうにもならないということは分かっていました。
そういう作品に触れても、自分が解放されることなどないことも分かっていました。

創作へのモチベーションは、すでに無かったのではないかと思います。
真に自分の人生を切り拓くには、結果がどうなろうとすべてを告白すること、すなわち身投げが必要だったのでしょう。
学生時代の自分には、ついぞその身投げをする機会もなく、ぐだぐだと妄想に浸りながら卒業までを過ごし、当然のように就職活動を始めます。
そして、内定が出て上京が決まりしばらくして3.11が起こりました。
上京をする際に、自衛隊員の乗るジープが高速道路を走る姿を見ながら、なにも成長も変化もできなかった自分はアニメーターとしての活動を始めます。

アニメーションに対するモチベーションは、単に逃避するためのものでしかなく、作品を見て自分の表現に活かそうだとか、そういった建設的なことは何もしていません。
創作の世界を目の当たりにしながら、そちらの世界に行くことのできない事実が、それに没頭することの無意味さを痛感させ、なんらの情熱を生むこともありませんでした。
旅行や料理の番組なら、それを見て自分も行ってみたい、食べてみたいという感情が起これば、実際にいき体験することが可能性としてはありえます。
創作の世界へ行くということは、可能性として現時点ではありえません。
自己の逃避場所としての架空世界への訪問があり得ないなら、自分にとって根本的な動機とはなりえません。
そも、こういった感情を解消し、解放を望むのであれば、そのような冗長手段など不要で、ただ告白すればいいのです。
主体者は自分自身です。
創作され作品にされた「誰か」ではなかったのです。
動機は直接、単純なほど強いのでしょう。
そして、ここでもその一線を超えることはできませんでした。

当時の自分がやるべきだったこと→ゆがみを極限化し、ぶっこわれた姿をさらす!?

あまりにも中途半端でした。
わかりにくいということです。
自分をはっきりさせるには、当時は狂うしかなかったのかもしれません。
自分にとってどうでもいい一切を投げ捨てて、必要だと感じるものだけで武装し、周りを攻撃するような表現。
なにもかもなぎ払い、焼き払う。
そういう衝動はだれにでもあると思いますが、そういう部分に正直にぶつかり、自分も周りも傷つけながら、どうにもならなさをもがいて訴えるしかなかったのではと思います。
それを記録し、保存するというのも大切でしょう。
墓標を自分で刻む。
そんなことを当時の自分がしていれば、さすがに周りは何事かと察知し、変化が起こりえたのではないかと思います。
変化が難しければ難しいほど、それを渇望して暴れるべきです。
そこには否定も肯定もありません。
のたうつなにかがあるだけです。
社会はそういうのたうちまわるものの総体だと思うので、自分だけにそれが許されないなどとは考えず、助けを求めて暴れることが必要なのです。

新卒へ